聖書が語る救い 1.日本人の宗教観

  1. 日本人の宗教観

 ①半数以上が無宗教の実態

 ある統計によれば日本人の無宗教は60%以上、仏教が30%以上だそうです。しかし毎年正月の時期になると、初詣の様子がニュースで流れます。初詣は日本人の7割が行くそうです。無宗教以上の割合です。多くの人々が参拝している様子を見て「これが自称無宗教の日本人の信心だな」と思います。言っていることとやっていることの矛盾を感じていないように見えます。しかしその矛盾に気付かない原因が信心なのです。この自称無宗教で神社参拝する人たちはその神社のことをどれくらい知っているのでしょうか。その神社の名前は知っているかもしれないけど、その神社の起源、祀られている神、御神体は何か。

 多くの日本人は大まかに言って、生きている時は通過儀礼(出産、七五三、成人、結婚、厄年等)として神社に行き、死ぬ時は仏式葬儀、また墓地もお寺という仏教という「神道と仏教の枠の中」で生きています。自称無宗教の人も同じです。だとすれば生きている時にお世話になっている神社、神道について知っているかと言われれば、そうではない現実があります。こういう事を言うと「そんなものは知らなくてもいい。信じることが大切だ。」と言う声が返ってくるかもしれません。しかしそれが日本人の信心の姿です。よく知らない人のことは信じることができませんが、よく知らない神を信じることができるのです。なぜそのようなことができるのでしょうか。

 私の故郷である沖縄に「ウガンブスク(拝み不足)」という言葉があります。これは何か自分に不幸が起こった時に「拝むのが足りなかったから」という意味です。つまり信心とは信じる対象は何でもよくて、信じる自分自身がどれだけ信じることができたかにかかっているということです。「いわしの頭も信心から」という言葉はいわしでも何でもいいから信じることが重要であるということです。「困った時の神頼み」という言葉は普段は神を信じていないと言っている(もしくはそのように生きている)けれども困った時に熱心に信じれば神が自分のために動いてくれるという期待を持って拝むという姿を表しています。

 英語には「信じる」と訳することができる言葉が3つあります。「Believe」「Trust」「Faith」です。これらの意味は「Believe:とにかく信じる」「Trust:信頼する」「Faith:信仰する」です。これらに当てはめて考えると日本人の信心はBelieveに当てはまると言えます。信じる対象は必要ですが、何でもいい、とにかく信じることが、深く信じることが重要なのです。信心とは自分次第、自分本位の「信じる」なのです。

 ②八百万の神々(人が作った神々)

 そのようにして信じる対象は何でもいいと考える日本人が多くの神々を拝んでいることは当然のことと言えます。各地に木や石、像や現象を拝む場所があります。しかしそれを拝んでいる日本人の誰もが「この木や石が私のために実際に動いてくれる」とは考えていません。

 「八百万の神々」は神道において数多くの神々を総称して使われる言葉です。古くは古事記に記されているそうです。この自然界に存在する八百万の神々が1億人の日本人のそれぞれの願いのために動くとすると本当に大変だと思います。例えば、Aさんがある神に「Bさんに勝てるように」と拝み、Bさんが別の神に「Aさんに勝てるように」と拝んだら、神々同士が交渉するか、もしかすると戦う必要があるしれません。それぞれの願いを叶えるために神々は日々奔走することになります。また日本の神々は得意分野がそれぞれ異なります。「家内安全の神」「商売繁盛の神」「交通安全の神」「縁結びの神」「受験合格の神」などなど。なぜこのように多くの神々がいるかというと、それは「日本人が神を作ったから」ということになります。八百万の神々は人が作った神々なのです。それを言うと「それがどうした。拝みたい神を拝んで何が悪い。」と言われたこともあります。

 しかし、私はこのような状況、日本人の自分本位の信心が多くの神々を作ってきたという事実はもはや神を自分に従わせているという現状ではないかと思います。自分の願いを叶える神(本当に神が働いたのかは別として)をどんどん自分に従わせ、自分の願いを叶えない神は捨てる。神を作ることができるなら、神を捨てることができるでしょう。これが本当に自分の力を超えて働く神を拝んでいると言えるのでしょうか?神はもはや自分の下にいて自己実現のための道具となっていないでしょうか?あれほど熱心に拝んでいたのに、その問題や悩みが解決されたらまるで運が良かったか、自分が頑張ったからと考えてその神を忘れてはいないでしょうか。

 確かにこの生きづらい現在の日本の状況の中で様々な予想だにしない災難が降りかかることもあります。その時に「藁にもすがる思い」で何とか自分を助けて欲しいというみなさんの願いには私も共感します。だからこそこの真実を知って欲しいと思って書きました。大きな過ちを犯して周りから「自業自得だ、あなたは救いようがない」と見放されているあなたにも、「もう死にたい。人生に意味など無い」と絶望しているあなたにも、ぜひこの真実を知っていただきたいのです。この真実はすべての日本人に開かれています。生まれ、学歴、肩書き、収入、功績あるいは犯罪歴などは一切関係ありません。もうしばらくお付き合いください。よろしくお願い致します。

 ③成仏と進化論

 これまで神道の枠で話をしてきましたが、仏教はどうでしょう?昔、東京大学大学院で仏教の研究をしている方のお話を聞いたことがあります。その方は「日本の仏教は本来の仏教から完全に逸脱している」と言っていました。自分本位の信心を持っている日本人が自分に都合よく仏教の教えを変えてしまうことは不思議ではありません。それでもほとんどの日本人は葬儀を仏式で行います。そして亡くなった方は成仏した、死んだけれども仏になったとするのです。中には輪廻転生をという死生観を持っている方もおられます。最近よく使われる「人生◯週目」という表現はこれに基づいています。このような成仏や輪廻転生という考え方は「人がどこへいくのか」という人生の問いに対する一種の答えにはなるかも知れませんが、「人はどこから来たのか」という問いに答えることができません。私たち人間はどこから来たのでしょうか?

 多くの日本人はいわゆる「進化論」を信じています。「進化論」は仮説の一つであるにも関わらず、学校教育においてはそれしか教えられてこなかったため、それがまるで真実であるかのように受け入れられています。進化論においては、大まかに言って人間は霊長類、類人、猿人(約500万年前)、原人(約180万年前)、旧人(約20万年前)、新人(約4万年前)と進化してきたとされます。

 では成仏と進化論を同時に信じることができるでしょうか。いつの時点からの人が成仏できるのでしょうか?新人でしょうか?原人からでしょうか?霊長類も可能でしょうか?もちろんその頃に仏教は存在していません。では仏教の教えが確立した時代以降の人だけなのでしょうか?輪廻転生もその教え以降に信じた人から始まったのでしょうか。ここに現代の日本人が抱えている大きな矛盾があるのです。以前に私はある方にこの件について訊いたことがあります。その方は「それは科学であって、信仰とは関係ありません。」と言いました。人がどこから来たのかを説くことができないにも関わらず、人の行く先しか教えない教えを本気で信じようとするならば、科学と信仰を切り離さなければ無理であることも仕方ありません。人がどこから来たのかを説くことができなければ、人がどこに行くのかを説くことはできません。

 また進化論が大きな弊害を日本人にもたらしている現実があります。それは「命の尊さを立証できない」という弊害です。進化論によれば、偶然に起こったビッグバンによってすべてが偶然に生まれたからです。偶然に生まれたから意味などありません。偶然に死んでいくことになるのです。なぜ偶然に生まれたいのちが大切だと言えるのでしょう。「なぜ自殺してはいけないのですか」という問いに対して「みんなが悲しむから」という答えが一般的かもしれませんが、その「悲しむみんな」もまた偶然に死んでいくのです。だからと言って自殺していいということでは決してありません。その理由を後で説明します。あなたの命がなぜ尊いのか、それはあなたの命はあなたの所有ではないからです。