聖書が語る救い 2.自然界に見る創造主

2.自然界に見る創造主

 ①人はどこから来たのか

 人はどこから来たのでしょうか。偶然の進化によって人が生まれたのではないと、聖書は語ります。聖書は今なお世界のベストセラーであり毎年50〜70億冊発行され、3000以上の言語に翻訳され、ギネスにも登録されています。歴史の偉人たちの多くが聖書に影響を受けてきました。クリスチャンは聖書が神のことばであると信じ、受け入れています。ここからは聖書のことばを引用しながら進めていきます。

 聖書の1ページ目を開くとそこに「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1:1)と記されています。聖書初めからおられる神がある時点でこの世界を創造されたと記しているのです。創造とはそれまで存在しなかったものを新しく創り出すということです。この神は創造主なのです。創造主は最初にこの天地万物を創造されました。創造以前はこの世界も存在せず、闇が大水に上にあるだけの暗黒でした。そのような状態において創造主は第一日に「光、あれ。」とことばで光を創造されました。ここで夜と昼が存在するようになりました。そして第二日目にその大水を上と下に分け、水の層を持つ天(大空)が創造されました。第三日目に天の下の水を動かして地と海を創造されました。そして地の上に植物(種や実を持つ)を生えさせました。続く第四日目には太陽と月、星々を創造されました。これらが光の後に創造されたのは考えられないかもしれませんが、これが創造なのです。第五日目には水中の生き物(魚類)、空を飛ぶ鳥(鳥類)を創造されました。そして最後に第六日目には陸地に住む動物たち(両生類、爬虫類、哺乳類)を創造されました。闇と大水の状態から創造主はここまで素晴らしい世界を創造されました。この世界を見て創造主はこう言われました。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に創ろう。」(創世記1:26a) 創造主がご自分を「われわれ」と複数形で言っておられることについては後で明らかにしますが、人が創造主である神のかたちとして、似姿として創造されたことの意味は、人の見た目がそのまま神の見た目ということではありません。神のかたちとは、他の動物たちが持っていない「霊」を持った存在として創造されたということです。聖書は神が霊であると記しています。人が霊を持つということについて具体的にこう書かれています。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)この「息」という言葉が「霊」と訳することができる意味の言葉なのです。これが最初の人アダムの創造です。

  「人はどこから来たのか」という問いに対する答えは「天地万物を創造された創造主(神)が創造の最後に神の形として唯一、霊を持つ存在として創造された」というものです。なぜ「霊を持つ存在」として創造されたのか、それは人間だけが神を知ることができ、求めることができるという特別な存在なのです。動物が神を拝んでいる姿を見ることはありませんが、人間は太古の昔から今に至るまで、また文明が入り込んでいない奥地の民族から、最先端の現代人に至るまで神を求めています。これは創造主が人間に「神を知ることでしか満たされない領域」を与えておられるからです。

 ②進化論VS創造論

 創造主の創造についてここまで見てきても、それがおとぎ話のように感じる方もおられるかもしれません。

 このような逸話を読んだことがあります。万有引力を発見したニュートンの逸話です。ある時ニュートンは腕利きの職人に天体模型を作らせました。その模型はベルトや歯車、多くのパーツで緻密に精巧に作られたもので、ハンドルで回すと連動して動く素晴らしいものでした。それを進化論者の友人が見て驚きました。「この素晴らしい天体模型は誰がどのようにして作ったんだ?」ニュートンは「誰でもないさ。」と答えました。友人は「そんなことあり得ないだろ。誰がどうやって作ったんだ?」ニュートンは「そこらへんの歯車とベルトが自然に組み合わさってできたんだよ。」と答えました。友人は「頼むから教えてくれ。誰が作ったんだ?」と怒りました。そうするとニュートンは言いました。「本気そう思うか?確かにこれは途方もなく偉大で美しい宇宙のごくお粗末な模型にすぎないよ。でもこの模型が設計者も製作者もなく、自然にできたといっても君は信じない。それなのに、君はこの仕掛けのもととなった本物の天体が、設計者も製作者もなしに自然にできたと言っているのはどういうことだ?」進化論を信じてるみなさんはどう感じるでしょうか?

 近年、世界の科学界において「インテリジェント・デザイン論」が提唱されているそうです。これは「生物や宇宙の構造の複雑さや緻密さを根拠に、「知性ある何か」によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする理論」だということです。この世界を見た時、進化論や偶然の産物によって出来上がったものとは言えず、地球上の生命は何か知能の高い設計者によってデザインされたはずだと主張しています。この主張によればこの精妙さは、知能ある何かが関与した証拠だということができます。しかしインテリジェント・デザイン論には決定的な答えがありません。神や創造主という言葉は使われていません。もしこの「高度な知性」が生物であるなら、それも別の何者かにデザインされていなければ「高度な知性」まで進化できないということになります。それを同様に推論すると、「デザインをしたのは誰か」を永遠に特定することができないことになってしまうのです。しかし聖書はこのお方こそ、その答えが神、創造主だと教えているのです。それでも認めようとしない人々に対して聖書はこのように言っています。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(ローマ1:20) この世界を見れば創造主が、神がおられることは誰の目にも明らかなのに、それで神を認められないと弁解する余地は無いのです。

 日本の教育においては進化論しか教えられていないので、私たちは進化論こそが正しい真理のように思い込んでいますので、ある意味進化論は新興宗教とも言えるでしょう。

 ③創造の目的

ここまで創造主による創造を見てきましたが、創造について最も大切な事実を知る必要があります。それがなぜ創造主は天地万物と私たち人間を創造されたのかという目的についてです。大きくその目的は2つあります。

 ⑴ご自身の栄光を現すため

 例えばみなさんがプラモデルや人形、あるいは何か作品を作ったとしましょう。完成後みなさんはどう感じるでしょうか?達成感や満足感があるかもしれません。ではそれを作った後、みなさんはどうしますか?部屋に飾ったり、あるいは展示会に出品するかもしれません。そして他の人がそれを見て「素晴らしい」と言われると嬉しいでしょう。自らの努力、取り組みを評価されることは私たちにとって喜びであり、むしろ評価されるために様々なことに取り組んでいるとも言えます。全く評価されない、見向きもされないことのために取り組むことほど辛いことはありません。これは創造主においても同じことです。いえ創造主がそのようなお方であるからこそ、私たちもそのような者だということができます。

 創造主の創造を評価するということは、創造された私たちができることでは決してありません。なぜなら私たちの基準の枠には全く当てはまらない、私たちの想像をはるかに超えた働きだからです。造られた人間が造った神を評価することは恐れ多く、勘違いも甚だしいことです。あなたの造った人形があなたを評価してきたらどうでしょうか?

 このように私たちの評価基準の枠に決して当てはまらない創造という働きを「神の栄光」と呼びます。栄光は栄誉と同じ意味と考えて差し支えありません。ただ讃えられる働きなのです。聖書はこの神の栄光を讃えることばが数えきれないほど記されています。「主の御名をほめたたえよ。主が命じてそれらは創造されたのだ。」(詩篇148:5)「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」(1テモテ4:4)

 創造主がこの世界と人間を創造された目的は「造られたこの世界とすべての人間が造ってくださった神の栄光をほめたたえるため」なのです。

 ⑵愛の関係を持つため

 前項を読むと「神は自分のためにこの世界を造ったのだったらすべての人間をコントロールして自分を拝ませればいい」と考える方もおられるかもしれません。しかし創造主は私たち人間を創造主に都合の良いロボットとして創造されたのではありません。

 あなたには愛する人、あるいはペットがいるでしょうか。もしその人やペットがあなたに都合の良いプログラムをインストールして、すべてあなたの思い通りに動いてくれる存在だとしたらどうでしょうか。最初は快適かもしれませんね。しかしそこには意思疎通が存在しません。自分の愛情に自分に思うように応えてくれるようにプログラミングされた相手に対して、最初は愛情を感じていたとしても、次第にそれは愛情ではなく、主従関係になってしまいます。その相手からの自発的な愛情を感じることができなくなれば孤独に陥ってしまうのも仕方がありません。

 創造主は私たち人間に意思をお与えになりました。それは神ご自身が私たち人間を愛する対象として創造されたからです。私たち人間もまた自分の意思を持って創造主を愛するならそこには神と人間との愛の関係が生まれます。創造主はこれを願っておられるのです。天地万物の創造を思い出してください。人間だけが他の被造物とは異なり、神のかたちに創造されたことを見ました。これは神が私たちを愛しておられることの証拠です。またすべての創造物の中で人間は最後に造られました。それは私たち人間に創造主の栄光を現すためであり、同時に私たち人間がこの素晴らしい世界を楽しむためでした。愛する私たちを楽しませ、喜ばせ、快適に生きていくことができるためであったのです。聖書にこうあります。「(神は)あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」(使徒の働き14:17)

 最後に人間を創造された後に創造主がどう感じたか、聖書はこう記しています。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常によかった。」(創世記1:31) ですから、この世界の大自然を見る時、これらが進化によって偶然に生まれたものではなく、創造主が私たちのために造ってくださったその愛を知ることができるのです。その愛を感じ、感謝し、これらを造ってくださった神を愛するようになるのです。みなさんはこの多様性と美しさに満ちた世界を見て、創造主の愛を感じられるでしょうか?