聖書が語る救い 3.聖書に見る唯一神

3.聖書に見る唯一神

 ①愛なる神

 次に創造主が具体的にどのようなお方なのかを見ていきましょう。神は聖書を通して神はご自身一人しかおられないことを記しておられます。「今、見よ、わたし、わたしこそがそれである。わたしのほかに神はいない。」(申命記32:39)「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。」(イザヤ44:6)

 この唯一神は決して人間が創り出した神ではありません。神が創造主として人間を造ってくださったことを見ました。あなたが作った人形があなたのすべてを理解することができないように、私たち人間がこの創造主である唯一神のすべてを理解することはできません。もし「私は唯一神のすべてを理解した」という人がいるなら、その人は唯一神の上に立つことができる人でしょう。絶対にそんな人はいませんが。

 この唯一神のすべてを理解することができなかったとしても、理解することができることがあります。それはこの神がご自分を通して聖書を通してを明らかにしてくださっていることです。それは創造主のところでも見ましたが、神ご自身が「愛なる神」であるということです。「神は愛である」と聞くと、私たちは博愛を思い浮かべます。博愛とは「広く平等に愛すること」です。この博愛だと何か、神の愛が広く浅い愛のように感じてしまうのではないでしょうか?私のことを知っているかもしれないけど、遠くから見ている感じのイメージです。しかし決してそうではありません。神の愛は私たち一人ひとりに対して迫ってくる愛です。私の造語ですが、「迫愛(はくあい)」と言うことができる愛です。それを聖書はこう記している部分があります。「あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み上げられた方です。私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいはそれをよく知っています。私が隠れた所で造られ、地の深い所で織り上げられたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが書き記されました。私のために作られた日々が、しかもその一日のないうちに。」(詩篇139:13-16) 天地万物をお造りになった創造主である神が、あなたが母親のお腹の中にいる時にあなたを組み上げてくださったのです。そしていつも母のお腹の中にいるあなたを見てくださっていたのです。これが迫愛です。別の箇所にはこうあります。「あなたがたの頭の髪の毛さえも、すべて数えられています。」(マタイ10:30)さらに「あなたは私の座るのも、立つのも知っておられる」(詩篇139:2)ともあります。あなたの誕生だけでなく、いつも私たちをご覧になっておられるのです。あなた以上にあなたのことを知っておられるのです。これ以上に個人的な愛があるでしょうか。この神は私たちのように目に見えるお方ではなく、時間や空間に縛られるお方ではないので一人ひとりを、あなたを迫愛をもって見ておられるのです。冒頭の「なぜ自殺してはいけないか」という問いに対する答えは、「あなたのいのちはあなたの所有ではなく、あなたを造り、迫愛によって愛してくださっている神のものである」からです。自殺は創造主である神を悲しませ、その神に背く行為なのです。あなたがこの迫愛に気づいて欲しいと心から願っています。

 ②義なる神

 あなたにお子さんがいらっしゃるとして、その子育てを愛だけで行うことは可能でしょうか。何かものを壊したり、人を傷つけてしまった時もただ見守って、本人の意思を尊重し続けるべきでしょうか。愛と同時に「正しさ(義)」が必要となります。日本的に言えば「人の道」となりましょうか。そのようなことをしてしまったら、罰を与えなければなりません。これは唯一神にとっても同じことです。

 最初の人間であるアダムとエバは蛇として現れた悪魔にそそのかされました。神が絶対に食べてはいけないと命令した「善悪を知る知識の木」からその実を取って食べたのは、この蛇が「あなたがたが神のようになる」と誘惑してそれに負けたからです。それまで善しかなかった世界に悪が入り込み、人間は自分が神のようになりたいという願望を持つようになったのです。これを原罪と言います。それ以降すべての人間はこの原罪を持つものとなりました。初めに与えられた自由意志はこの原罪の影響を受けるようになったのです。

 旧約聖書にはこの神が選んだ信仰者であるアブラハムと言う人が登場します。そしてそのアブラハムの子孫が増え広がってイスラエルと呼ばれるようになりました。アブラハムを選んだ神はこのイスラエルを愛しておられました。そしてイスラエルはこの創造主にして唯一神であるこの神を信じて従うなら神から祝福を受けるという契約を神と交わしました。親子関係でも約束事がありますよね。しかしイスラエルは何度もこの神を信じなかったり、あるいは他の神々を拝むようなことも行ってしまいました。これは神の義(正しさ)に反することでした。それでも神は預言者という人々をイスラエルに送り込んで、その過ちを改めて神に従うように語らせました。すぐに罰を与えるのではなく、神は忍耐深かったのです。しかしイスラエルは結局、神を信じること、従うことから離れていきました。それで神はイスラエルに対する罰を与えました。敵が攻めてきても助けることなく、イスラエルは滅ぼされてしまったのです。親に反抗して自分のやりたいように行い、親の言うことを聞き続けない子どもはどうなってしまっても仕方ありません。

 同じように、創造主である唯一神の義(正しさ)に反している人について聖書はこう記しています。「彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(ローマ10:3) 神の義に従わない人というのは、自分の義(正しさ)を持っていることが明らかになっています。確かに正しさの基準はある程度人によって異なる部分があるかもしれません。しかしそれが多くの衝突を引き起こします。さらに人の正しさというのはもろいものです。一貫性がありません。戦地で敵を殺せば勲章が与えられますが、街中で人を殺せば犯罪者です。

 神の義(正しさ)は天地創造から常に一貫性があります。決して変わることがありません。その義とはこれです。「イエスは彼に言われた。『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:37-39) 「神を愛し、隣人を愛する」の2つの戒め(命令)が神の義を表しているのです。その神の義の前にあなたの義(正しさ)は本当に正しいかを考えたことがあるでしょうか。

 ③三位一体の神

 「愛と義」という唯一神のご性質について見てきましたが、最後にこの唯一神の姿について見てきましょう。姿と言っても神は霊ですから私たちの目に見ることができません。しかし神は聖書を通してご自分の姿を明らかにしておられます。それが三位一体という姿です。唯一神の中に3つの位格(人格のようなもの)がそれぞれおられます。「1+1+1=3じゃないか」と思うのも当然です。しかし数学的に言えば「1×1×1=1」と現すことができるかもしれません。それでもこの三位一体という神の姿は私たちの頭では完全に理解し尽くすことができないものです。これまで多くの人がこの三位一体を理解するために多くの例えを考えてきました。しかしどれもあてはまるものではありません。なぜならもし例えることができるなら、神が被造物に属するものになってしまう可能性もありますし、それを完全に理解した人が神の上に立つ者になってしまうかもしれません。三位一体は造られた私たちの頭で理解できるものではなく、信じるものであるということです。

 三位一体の神は聖書でこのように記されています。「父、子、聖霊」(マタイ28:19) 父も、子も、聖霊もそれぞれ独立した完全な神であり、位格を持っておられるのです。補い合っているというわけではありません。また混同されたり、一つを分割したりもされません。一方が他方を造ったわけでもありません。これをごくシンプルに説明するとこのようになります。

・父なる神=見えるものも、見えないものも含めた天地万物を創造し、今もこの世界を保持しておられる神

・子なる神=父なる神とともに初めからおられ、ともに働かれ、今から2000年以上前にこの地上に来られた神

・聖霊なる神=父なる神とともに初めからおられ、見えないが今も働いて三位一体のご計画を実現させる神 

この3つの位格が完全に一つとなっておられる唯一神なのです。

 先ほど神が「われわれのかたちに似せて人を造った」と言いましたが、その複数形の「われわれ」がこの三位一体の中での決定であるということです。この神の姿は、神々を作り出してきた日本人にとって(そもそも人間にとって)到底理解し尽くすことは不可能であり、人が神の上に立つことなど絶対にできない姿です。それだからこそ神が人間を創造されたという確かな証拠となるのです。