聖書が語る救い 5.解決の方法

5.解決の方法

 ①福音(イエス・キリスト)

 罪が赦されるための大原則が聖書にこのようにあります。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9:22) これは単に痛みを感じなければいけないということではありません。多くの日本人は「命は心臓もしくは脳にある」と考えていますが、聖書が言う命は「血」なのです。旧約聖書で神はイスラエルに対して個人の罪を赦すために動物のいけにえを求めました。それで当時のイスラエルの人々は神が定めた動物に自分の罪を転嫁して、いけにえをささげ、血を流させました。それで罪が赦されたのです。これが罪の赦しの雛形です。このことが明らかにしているのは、神があなたの罪を赦すために求めておられるのは命なのです。この神に罪が赦されるためにはいくらお金を積んでも、いくら善行をしても無意味です。ではあなた自身が自分の命を差し出したとして神はそれを受け入れてくださるでしょうか。罪の奴隷で神の怒りの下にあるあなたの命は罪の赦しの方法として神に受け入れられることはありません。罪が無い、神に受け入れられるいけにえの命がささげられなければならないのです。そんないけにえがあるでしょうか。それが子なる神です。子なる神は今から2000年以上前にこの地上に来てくださったイエス・キリストです。「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿を持って現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8) と聖書に記されています。天地万物以前から父なる神とともにおられた御子なる神が、罪深い私たちが父なる神から赦しを受けることができるためのいけにえとしてこの地上に来てくださったのです。キリストは父なる神の前にまったく罪がありませんでしたが、しかし犯罪人として処刑されました。それは皮肉にも父なる神を信じ、熱心に従っていると自称していたイスラエルの宗教指導者たちが扇動したことでした。御子なる神キリストを「神への冒涜罪」として死刑に引き渡したのです。どちらが神への冒涜罪でしょうか。キリストは当時最も残虐な処刑方法として全裸で手足に釘を打ち込まれて血を流し、人々の目にさらされ、究極の恥辱を受けて死なれました。しかしキリストは十字架上で父なる神に祈った時「彼らを残らず滅ぼしてください」ではなく「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)と自分を殺した人々のために祈りました。そして息を引き取る直前「完了した」(ヨハネ19:30)と叫ばれました。

 このことをどう理解すればいいのでしょうか。イエス・キリストはご自分が人間の罪を赦すためのいけにえとして来られたことを自覚しておられました。自分の命が父なる神からの私たちへの赦しをもたらすことを知っていたのです。神に対して何をしているか分からずに罪を犯し続けている私たちの罪の赦しが完了したのです。分からずに神に罪を犯していた私たちもキリストを十字架につけた者たちと同じです。しかしこのキリストが完了した罪の赦しが私たちに罪をの赦しをもたらすことができるのです。聖書はこう記しています。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)なんという愛でしょうか。あなたはあなたを傷つけ、裏切り、拒絶した相手が裁判で有罪になろうとしているとき、自分の子どもをその相手の身代わりに死刑に引き渡すことができるでしょうか。これが神の私たちに対する究極の迫愛なのです。しかしこれが神が私たちの罪を赦すために取られた方法です。神の義と神の愛がここに現されているのです。これが福音です。

 しかしこの福音はキリストの十字架の死による罪の赦しに留まりません。聖書はこう記しています。新約聖書1コリント15章に福音についてこのようにあります。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(1コリント15:3-4) 福音とは、私たちの罪の赦しのためのキリストの死だけでなく、キリストが死からよみがえられたことなのです。これによってイエス・キリストが御子なる神であることが証明されたというだけではありません。十字架の死が罪の赦しを私たちに与えられるため、そして死からの復活を通してその赦された私たちに神の義を与えるのです。これは神の前に「この者罪無し」と認められるということです。裁判官が「被告人を無罪とする」という判決宣言と同じです。これを義認(ぎにん)といいます。聖書にこうあります。「主イエスは、私たちの背きの罪ゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4:25) この義認を得るため方法についても聖書に「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たち、義と認められるのです。」(ローマ4:24) イエス・キリストの復活を信じるのです。その復活を神が行った働きであると信じる者すべてにこの義認を神が与えてくださるのです。罪を赦すだけでなく、罪無き者と認めてくださる。これが福音の全体像なのです。もしあなたがここまで読んでも「バカらしい」と考えるならば、聖書はこう言っています。「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教(福音を宣べ伝える)のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」(1コリント1:21) あなたは自分の知恵が神の知恵を上回ると考えてはいないでしょうか。

 ②福音を受け入れるために

 神が救いの方法としてこれほど素晴らしい福音を私たちに提示してくださっているのですが、この福音によって救われるためにはどうしたらいいのでしょうか。それはまず「自分の罪を認める」というところから始まります。すべての人間はこの神の前に罪人です。聖書が神の前に「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。」(ローマ3:10-11)また「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)と書いている通りです。すべての人間は救われる必要があるのですが、自分がその救いを必要としていることに気付くことができるのは「自分は罪人だ」と認めた人だけだからです。自分の罪を認めることは誰でも難しいことです。したくないことです。何か悪いことをしても、あるいは自分がしたことが悪い結果となったとしても「自分は悪くない。」とその原因を他の人やその時の状況のせいにしたくなるものです。それは私たちが自己中心だからです。しかしあなたのすべてを知っておられる神の前に罪を隠すことなどできません。問題はあなたがそれを認めることができるかにかかっているのです。あなたがそれを認めることができないなら、この神が用意された救いをもたらす素晴らしい福音はあなたにとって何の意味もありません。しかしあなたが「私は罪人であり、救いを必要としています」と神に求めるならば、この福音はこの世のいかなるものに遥かに優って素晴らしい恵みとなります。恵みとは「本来受けるべきでなかった者に神から与えられるもの」です。「恵みの雨」は私たちが願った雨ではなく、ただ神が与えてくださったものです。ですから「そんなものは願っていないのに、バカらしい教えだ」と一掃していたこの福音が何にも変えられない恵みであることに気づくのです。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:8)とあるように、救い・福音への応答は私たちのいかなる善行や努力によるものではなく、本来受けるべき者に与えられる神の恵みなのです。この福音への応答によって神の罪を認めることができたならば、これまでの罪の生き方を悔い改めるのです。悔いるだけではありません。改めるのです。もうあのような罪の生き方を送るのではなく、神に従う生き方を始めるのです。これが神があなたに与える救いです。これはあなたの人生において大転換点です。聖書はこう言っています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)と約束されているからです。口先の告白ではなく「イエスを主とした生き方」に進んでいくのです。この死者をもよみがえらせることができる神に従う生き方のために必要なことは、自分の心の王座に自分の主としてキリストを信仰によって迎えることです。キリストは神です。そしてあなたの救い主です。あなたが罪赦されるために、また義と認められるために来て、死んで、よみがえったキリストにならう、従う生き方を求めることです。聖書はキリストを「信仰の創始者であり、完成者」(ヘブル12:2)だと言っています。キリストは子なる神であられ、父なる神に従う完全な信仰の模範です。このキリストにならう、従う生き方こそ本当の救いをもたらすのです。

 そしてこの本当の救いについてキリストご自身がこのように言っておられます。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入っていく者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13-14) 多くの荷物を抱えたままでこの狭い門を通ることはできません。それまであなたが大切だと思っていたもの、正しいと思っていた価値観、この世で得た多くの物を捨てなければこの門から入っていくことはできません。しかしあなたがこの狭い門から入り、細い道を歩んでいくならあなたはいのち(永遠のいのち、天国の約束)に至ることができるのです。このような歩みはもはや以前のあなたからは想像もできないほどの変化をもたらします。その変化を聖書はこう現しています。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17) 救われた人は新しく造られた人なのです。救われた人は一言で言えば「自己中心から神中心になった」のです。

 ③救い(何から、何によって、何のために)

 この救いを神のご計画の視点から理解することは必要なことです。「救い」という言葉を辞書で引くと「好ましくない状態を改善して、望ましい状態に変えること」とあります。これまでこの「救い」を私たちは自分にあてはめて「自分にとって望ましい状態になった」と考えてきました。しかしここまで見てきてはっきりしていることは、聖書が語る救いとは「神にとって好ましくない状況を、神にとって望ましい状況に変えること」だと分かります。その全体像を理解するためにはっきりとさせておかなければならないことは「救いは、何から、何によって、何のために私たちに与えられたのか」ということです。

 救いは「神(神の怒り)からの救い」だということです。これについてはすでに見てきました。次に何によってか、それは「神によって救われた」ということです。神がご自分の御子イエス・キリストを通して私たちに救いを与えてくださったということについても見ました。最後に「何のために」ですが、これもまた「神のために救われた」ということなのです。あなたが救われるのはあなた自身のためではありません。神のためなのです。神にとって望ましい者となるために救われるのです。ですから神に対して「あなたの怒りから、あなたによって救ってくださってありがとうございます。あとは自分の望む人生を送っていきます。」とはならないのです。

 人間が作り出した多くの宗教は「あなたが幸せになるために◯◯をしなさい」と教えますが、この神は「神を喜び、神が喜ばれるために生きていきなさい」と教えます。聖書に「こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。」(ローマ7:4)とあります。神のために生きるあなたは神のために実を結ぶ(その成果を現す)者となるのです。それがあなたの変わらない、揺るがない喜びとなります。神の、キリストの迫愛を感謝し、その神を愛して生きていくことができるのです。そんなことが私にできるのかと不安に思われるかもしれません。しかし安心してください。そのように生きていきたいと願っているあなたを神は助けてくださいます。イエス・キリストが模範として導いてくださいます。そして目には見えない聖霊なる神もあなたを慰め、励ましてくださいます。なぜならあなたは神の敵から神の味方になったからです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)