6.あなたは救われたいですか?
①救われるための決断
いよいよ最後の章になりました。ここまで読んでくださって感謝致します。さてここからはあなたが決断をする番です。よく考えてください。よく考えもしないで「天国に行けるから」と簡単に信じるのはやめてください。神々を拝んでいたような自分のご利益から信じることではいけません。イエス・キリストはそのような人を追い返されました。マタイの福音書19章にこの場面が記されています。一人の金持ちの青年がイエス・キリストのもとに来て「永遠のいのち(天国)」を求めました。イエス・キリストは彼に対して「すべてを売り払ってわたしに着いてきなさい。」と言ったのです。彼はそれを拒み、イエス・キリストは彼を追い返したのです。これは単純に「では私たちは家も、車も、すべてを売ればいいのか」ということではありません。キリストは彼の心の内を見抜いておられたのです。彼は自分が何も手放さずに永遠のいのち(天国)を得たいと考えていたのです。狭い門から入らずにそれが与えられるはずがないのです。
またキリストはこのようにも言いました。「自分の十字架を負ってわたしに着いて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。あなたがたのうちに、塔を立てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。」(ルカ14:27-30) キリストに従う弟子はキリストが背負ったように、自分の十字架を背負います。それは苦しいことです。周りから反対されたり、距離を置かれたりするかもしれません。それを覚悟できるかということです。だからこそ考える(計算する)必要があるのです。聖書にはこうもあります。「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(1コリント15:2 第3版)福音をよく考えずに信じることによって救いは与えられないのです。よく考えずに、覚悟もなく信じる人は他の宗教のように、単にこの現世でのご利益を求めている可能性があります。このような人のことを聖書はこう記しています。「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番憐れな者です。」(1コリント15:19) そんなことにならないように、よく考えて決断してください。これはあなたの現在だけでなく、あなたの永遠を決定する決断です。あなたは自分のためにではなく、神のために信じるのです。あなたがキリストに従う決断をすることができるように願っています。
②救われたことの確認
聖書が教える救いはあなた自身が新しく生まれることですが、その救いによって大きく変わることがあります。その救いの証拠を聖書はいくつも記していますが、ここでは3つのことをお伝えします。
⑴身分が変わる
あなたはこれまで罪の奴隷でした。しかしこの救いによってあなたは「神の子ども」となると聖書は語っています。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と呼びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」(ローマ8:15-16) 御霊とは聖霊なる神ご自身のことです。救われたあなたには御霊があなたの内に与えられるのです。この御霊があなたを父なる神に対して「この人はあなたの子どもです」と証ししてくださるのです。神に対してだけではなく、周りの人々にもそれを証明できるように助けてくださるのです。罪を赦すだけでなく、義を与えるだけでなく、あなたをご自分の子どもとして受け入れてくださるのです。「アバ」とは聖書が書かれたヘブル語で親しみを込めた父親への呼びかけです。日本語で「父ちゃん」というイメージでしょうか。これほどの親しさを持って創造主であり、唯一神である父なる神と関係を持つことができるようになるのです。
⑵目的が変わる
これまでは自己中心、自己満足、自己正当化、自分勝手な目的のために生きてきましたが、その目的が大きく変わります。どのように変わるのでしょうか。それがイエス・キリストが教えてくださった私たちの祈るべき祈りに現されています。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを、赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:9-12) これまではたとえ神々に祈ったとしても「自分のこと、願い」が最優先でした。しかしこの祈りはまず最初に神のために祈っています。神の御名(聖書では名はその人自身を現している)が聖なるもの(地上のあらゆるものから取り分けられたもの)とされること、御国(神の支配の領域)が来るように、神のみこころ(喜ばれること)が天で行われているように、この地上でも行われるようにという祈りです。そしてその後に自分のこと「日ごとの糧(必要としているもの)を与えてください」そして「神に対する負い目の赦し」「自分に負い目のある人たちを赦す宣言」「試みと悪からの救い」を祈っているのです。第一の目的は「神の素晴らしさがますます現されるように。」そしてその後に「自分の生活が守られて神に喜ばれるように」祈ることをキリストは教えてくださいました。救われた人の目的はこのように変化するのです。
⑶動機が変わる
これまでは自己中心ゆえに損得勘定、打算的、計算ずくな動機で生きていました。自分が満足・納得する動機で歩んでいました。しかしそれがまったく変わるのです。神中心になったので「神が満足、神が喜ぶするためにはどう生きればいいか」が動機となります。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2) この世の価値基準(成功物語)に自分を合わせることから離れるのです。「自分を喜ばせる」から「神を喜ばせる」という動機に変えられるのです。
生まれた赤ちゃんがするに従って親のことを理解し、親を愛し、親を喜ばせていくように、あなたも神を理解し、神を愛し、神を喜ばせていく者に成長していくことができるようになるのです。これが救われたことの確認です。
③救われた人の人生
⑴聖化の成長
先ほど「神の子どもとして成長する」と書きましたが、この成長のことを聖化といいます。義認の後にこの聖化に進んで行きます。繰り返しますが「聖」とは「あらゆるものから取り分けられた」という意味です。聖書はこの世の人間の書いたあらゆる書物から取り分けられています。それは「聖書は神のことば」だからです。このようにしてますますこの世から取り分けられ、神の子どもとして、神を喜び、神を喜ばせ、信仰の模範であるキリストに似る者としての成長を遂げていくのです。しかしそこには戦いが生じます。それは先ず自分自身との戦いです。古い自己中心との葛藤が生じるのです。それは聖書が「あなたがたも、キリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだものであり、神に対して生きているものだと、認めなさい。」(ローマ6:11)だと言っていることに基づきます。その現状に対して聖書には「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法(神の義)に仕え、肉では罪の律法(自分の義)に仕えているのです。」(ローマ7:23-25) とあります。自分の心と体の葛藤がありつつも、その根底には神への感謝を持ちつつ、という戦いが起こるのですが、これが正常な聖化の生き方なのです。
⑵神の子どもたちとの交わり
このような人生を私たちはたった一人で生きていくわけではありません。もちろん三位一体の神がそのために必要な力を与えてくださるのですが、さらに神は励まし合って生きている者たち、他の神の子どもたちを与えてくださいました。それがクリスチャンたちです。聖書は神の子どもたちに対して多くの箇所でこのことを教えています。特にヨハネの手紙第一という書には具体的に記されています。例えば「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。」(1ヨハネ3:11)、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(1ヨハネ4:7) イエス・キリストもまたこのように言っておられます。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34-35) 救われた、イエス・キリストを信じ受け入れて神の子どもとされたあなたは決して一人ではありません。クリスチャンたちがあなたを助け、あなたが他のクリスチャンを助ける、その愛に神の愛が現れ、その愛のうちにあなたはとどまることができるのです。
⑶新たなスタート
神から、神によって、神のために救われ、神の子どもとなったあなたには新たな試練が待っています。しかしその試練もまた意味と目的があります。
救いそして天国の保証は神の一方的な恵みです。実はあなたが自分の罪を認めることができたのも神の恵みなのです。イエス・キリストは言われました。「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(ヨハネ16:8) この罪の悔い改め、福音への応答、救いは神の一方的な恵みであり、すべての人に平等に与えられるものです。
しかしその先の歩みに対する報酬には違いがあります。「競技場で走る人たちはみな走っていても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に(福音を)宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。」(1コリント9:26-27) 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)、このように冠・報酬が異なるのです。救われた人はそのためのレースをスタートするのです。自分のからだを打ちたたいて走るそのレースは本当に大変なものです。この日本においては特に厳しいレースになるかもしれません。しかしそれには神からの賞を得るという目的があります。しかし聖書はこのように励ましています。「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ローマ8:18)
あなたとともにこのレースを走り終え、天国においてともに救いの喜びを感謝し、ともに冠を受けることができることを何よりも願い、神に祈っています。
