何も問題がないと思っていた。
──それが、最大の問題だった。
あなたの暮らす日本は、世界でも有数の安全な国です。
整ったインフラ、清潔な街並み、高い教育水準。
多くの人が親切で、秩序を守り、相手を思いやる文化が根づいています。
でも今──春と秋が短くなり、四季のリズムさえ崩れ始めているように、
世界の「内側」では、確かに何かが壊れつつあると感じませんか?
今の時代、他人と深く関わることは「リスク」になりがちです。
だから人との距離を保ち、無関心でいる方が楽。
誰かの苦しみに気づいても、「自分には関係ない」と心を閉ざす。
そして、知らず知らずのうちに、私たちは「自分さえよければいい」という世界に閉じこもっていくのです。
でも、その結果何が起こるでしょう?
私たちの心は、どんどん“鈍く”なっていく。
他人の苦しみに、心が動かなくなる。
自分の欲望が満たされれば、それでいい。
そんな自分にすら気づかず、「まあ、みんなそんなものでしょ」と開き直る。
──それこそが、ラオデキアの教会が陥っていた状態でした。
(ヨハネの黙示録3章14〜22節にその教会の様子が記されています)
西暦90年ごろ、現在のトルコ西部にあったラオデキアの町。
そこは、豊かな銀行業、目の軟膏、黒い高級羊毛などで繁栄し、
町の人々は「何一つ足りないものはない」と思っていました。
教育も医療も文化もあり、まさに“理想の社会”だったのです。
けれど、聖書に登場するイエス・キリストの言葉はこうでした:
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もないと言っているが、
実は、あなたは、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることを知らない」(黙示録 3:17)
表面的には何不自由なくても、霊的には完全に麻痺していたのです。
イエス・キリストさえ、教会の外に締め出されていたほどに。
これこそが「罪」です。
誰かを殴ったり、盗んだりするだけが罪ではありません。
本当の罪とは、自分を中心にして、神を必要としなくなった心。
それに気づかず、「自分は善良でまとも」と思って生きていることこそ、最も危ういのです。
聖書は、私たち一人ひとりに問いかけます。
あなたは、自分が罪人であることに気づいていますか?
そして、その罪の根源は、“自己愛”に溺れていること。
「自分が大事」「自分だけは認められたい」「自分は傷つきたくない」
──そうして、他人への関心がどんどん失われていく。
これは誰にでもある、ごく自然な感情です。
けれど、そこから抜け出す力は、私たち自身にはないのです。
だからこそ、神があなたを愛し、手を差し伸べておられます。
神の愛は、あなたが「いい人だから」注がれるのではありません。
あなたが、自分の罪に気づき、「このままではいけない」と目覚めるその時を、
ずっと待ってくださっているのです。
イエス・キリストは言われました。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。
だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、
わたしはその人のところに入り、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録 3:20)
神はあなたの心の扉を、今もたたいています。
あなたがどんな過去を持っていても、
どれだけ無関心に生きてきたとしても、
あなたの心の扉を開けることを、待っておられるのです。
もし、
「ほんとうの愛を知りたい」
「心から人を愛せる人間になりたい」
「自分中心ではない生き方をしたい」
──そんな願いがあるなら、教会へ一度来てみてください。
あなたを罪の中から救い出し、
「本当のあなた」を取り戻してくださる、
神の愛と、キリストの真実が、そこにあります。
あなたの心の扉が、今、開かれますように。

